目に見えやすい付加価値 人は付加価値より人間性を認められたい

 

付加価値ですから、身につけていた宝石は、所有者が亡くなっても高額で取引されます。クルマも家も預貯金も、社会基盤が根底から覆らない限り、所有者の人間性とは無関係に、社会的な価値を帯つづけます。

付加価値は目に見えやすく、わかりやすいため、付加価値を認めるのは簡単です。「あら!素敵な洋服」「うわ!立派な家」と誉めそやすだけで充分。

ただし、気をつけなければならないのが、ぞんざいで、疎(おろそ)かで、うわべだけな、なおざりのストロークになってしまうこと。

客引きの「社長!社長!」という呼び込みが典型的ですよね。客引きは、社長という社会的地位に敬意を払っているわけではなく、「社長と呼んどきゃ、まぁ気を悪くしないだろう」との、うわべだけのストロークを放っているわけです。

人は、付加価値よりも、人間性を認められたがりますから、たとえば、「素晴らしいクルマですね」「いい乗り心地ですねですね」とクルマばかり褒めて、その人の人間性に触れないでいると、「ああ、こいつはクルマに興味があるだけで、自分自身に興味があるのではない」と、カンタンに見抜かれてしまい、クルマを介しただけの付き合いになり、そこから先へは進みにくい。

もちろん、クルマ以上の付き合いを望まないのであれば、それはそれで良ければ良いのですが、浅い付き合いに留まることは言うまでもありません。

そうした軽い付き合いを望む風潮もありますし、素性を明かさなくもよいインターネットのブログなどでは、それが可能ですから、付き合いの度合いを使い分けて楽しめば良い。

ただし、「良い」と伝える行為は、確かにプラスのストロークですが、人間性を認めるのではなく、付加価値のみを認める場合は、くれぐれも褒め殺しにならないように気をつけて下さいね。

 「人間の付加価値」退職したら中元歳暮が来なくなる理由

「生存」「思考」「真価」という3つの原点に付加される価値が、終生のうち、失われるかもしれない不安定な価値である「付加価値」です。巷では、付加価値を含めて、その人の「人間の価値」と総称しています。

■退職したら中元歳暮が来なくなる理由

たとえば、国会議員であること。在職中は先生ですが、選挙に落ちりゃタダの人。

社長職にしたって、倒産したら無職ですから、付加価値。部長職も然り。

金持ちであることも、豪邸に住んでいることも、人気者であることも、官僚であることも、有名企業の社員であることも全て付加価値です。日本を代表する世界的な企業へ入社すれば、

「あの大企業に入社するなんて、すごいねえ!」

と評されます。確かに、入社したのは当の本人に違いありません。が、大企業の看板が後光になっているに過ぎず、本人の人間性が認められているわけではありませんから、会社を辞めれば露と消える儚(はかな)い付加価値です。

それであっても、大企業の一員であることを認められた本人は喜びますし、それが真価であるように錯覚してしまう人もいます。よく、

「退職したら、中元歳暮はおろか、年賀状さえ来なくなった」

と言われるのは、会社名や役職における付加価値が認められていたのであって、人間性としての価値が認められていたわけではなかった証拠。

付加価値は、ルイヴィトンの鞄と同じく、ブランドなのです。そのブランドが、鞄という本質を凌駕(りょうが)することも。

あなたの真価を見つける方法

できないのなら、できるように導くのが当たり前。と思ったら大間違いなんですよ?「できない人は永遠にできない」ということだってあるんです。

その場合は、別の道に真価を求め、探し出すのも指導者の務め。

著名人を例にとると、凶悪な暴走族を率いて警察の厄介になり、親から「お前を殺してワシも死ぬ」と包丁を突きつけられた悪ガキが、得意の格闘技を活かし、大相撲へ進み、大関まで昇進した人(千代大海)もいます。

プロ野球の投手としてはヒーローになれなかったけれど、プロレスでは一時代を築いた人(ジャイアント馬場)もいます。ゴルフのジャンボ尾崎も、最初はプロ野球の投手でした。ホームランバッターの王選手も、投手からの転向でした。

営業職では結果を出せなかったけれど、デザイナーへ転向したとたん、営業しなくても仕事が舞い込むようになった若者だっています。当社の社員でした。

今の道がダメだからといって、人間性の全てが否定されるものではありません。他に向いている道が必ずあります。それは、絶対本質である真値を見つけることで開ける道であり、本人と指導者が一緒になって探す道です。

自分の真価が分らない人もおりましょう。そのときは、目を閉じて、子供の頃を思い出してみて下さい。何度も何度も、時間をかけて、じっくり思い出すと宜しい。

真価は、子供のころに片鱗を見せているはずです。好きで打ち込んでいたことや、夢想していたことがあったはず。その瞬間を思い出したとき、真価の糸口が見つかります。

もう一つは、親の軌跡を観察すること。親が得意だったことや、好きだったこと、打ち込んでいたことは、子供にも引き継がれます。
子である本人は気づかなかったり、かえって意図的に背(そむ)くこともありますが、遺伝子は正直者です。蛙の子は蛙に育つように出来ているようです。

無条件に認める真価 アンコンディショナルストローク

真価を認めるには、無条件で認める方法と、条件つきで認める方法の2通りがあります。

無条件で認める方法とは、出来ようが出来まいが、真価そのものを認めること。これを、アンコンディショナル(unconditional:無条件の)ストロークといいます。

絵が上手な人がいたら、絵画展に入賞しようと、しまいと、「上手ですね」と褒める。

子供が0点をとってきても、「0点でも良いじゃないか。試験を受けたから、0点であることが分ったんだ。次は1点でも多く取ろう」と励ます。

大きな商談を契約できない営業マンがいても、一生懸命にやっているなら、「よく頑張っているな」と声をかける。

歌がうまかったら、「きれいな歌声だね。もっと聴かせて」と褒める。

字や書が美しいかったら、「美しい字だなあ」と褒める。

足が速かったら、「足が速いぞ。それが持ち味かも」と褒める。

もちろん、
「どうして、結果の出ない者を、認められようか?」
という反論もあるでしょう。いつまで経っても結果が出ないのに「それでもいい」と認めてばかりいては、現状に甘んじるか、図に乗るか、逆に重荷になってしまう危険性もある。

しかし、結果が出ないのは、結果を出せない本人だけの問題でしょうか?結果の出ないことをやらせ続けている立場(親・教師・上司・指導者など)にも問題があるのと違います?

結果を出せないのは、本人だけの責任ではなく、監督する立場の責任でもあります。それを棚に上げて「結果の出ないものは認められない」と糾弾するのは、指導者自らの無能を暴露しているようなもの。
糾弾は、指導者にとって、諸刃の剣なんですよ。それでも人を責めますか?

後天的な真価に気づいていなければいろいろな人に出会って雑談

先天性がなくとも、学力試験は、後天的な努力によって向上します。いくらIQが高くても、勉強しないことには始まらない。

よく「自分は、勉強すりゃ100点を取れる人間だ」との自己欺瞞を耳にすることがありますが、「それじゃあ、勉強してみい?」って話でして、やればできるなら、やればいい。それができない。

勉強するかしないかは、天賦の才ではなく、後天的な努力によるものです。どんなに記憶力が良くたって、勉強する自由をコントロールできないから、100点を取れないだけです。

その自由をコントロールする力や、信用を築き上げるといった、目に見えない絶対本質までが真価に含まれます。誠意や克己ですね。努力家と呼ばれる人は克己心(こっきしん。己に打ち勝つ心)が強い。

先天的な真価をどうのように伸ばすのも、後天的な自由です。後天的な真価を見つけるのも、自由です。それを自分で見つける人もいますし、いろいろな人に出会うことで見つける人もいます。

もし、あなたが、後天的な真価に気づいていないとしたら、いろいろな味方に出会って、雑談することです。味方の声に、注意深く、耳を傾けてみて下さい。

何気ない会話の中に、あなたの真価を見つけることでしょう。

先天的な真価を見つける、見つけてもらう

先天的な真価

真価には、芸術やスポーツのように先天的な才に因るものと、勉学や料理のように後天的に伸びる真価があります。

いくら努力したって、すべてのプロ野球選手が球史に名を残せないように、球史に名を残す名選手は、先天的な才があります。

その逆に、天賦の才に恵まれているからといって、何の努力もしない人が、いきなり大成するわけはない。イチロー選手にしたって松井選手にしたって、天賦の才に恵まれていながら尚、人の何倍も練習するといいます。人の何倍も野球が好きだから、人の何倍も練習できるのかもしれません。

ある小学生は野球が大好きで、野球部に所属していました。が、万年補欠で、人の二倍も練習しているのに、レギュラーになれなかった。よく「万年補欠」とからかわれていました。それでも好きな野球を辞めずに、万年補欠のまま、小中学校を終えました。彼は、小中学校まで、私の同級生でした。

高校進学を機に彼は、

「野球が好きなことと、野球のプレイヤーになることは違う。好きなだけなら、野球観戦でも、野球ファンでも良い」

と、長所である持久力を活かし、陸上部のマラソンへ移りました。すると、瞬(またた)く間に好成績を挙げ、地方紙のスポーツ欄に載るほどまでの選手になりました。彼は、球技には向いていませんでしたが、陸上に向いていた。

野球がダメだからといって、その人の全ての真価が否定されるものではない。ということは、野球の上手下手で能力を判断するのは間違っていることになりますね?


野球がダメなら、他の道へ進む方法もあります。彼の場合は、持久力という真価が認められることによって、進むべき道で成功できた例といえましょう。

本質を突く「真価へのストローク」

人間性の真価とは、あなたが終生失うことのない本質です。

西郷隆盛のように大らかな人柄。マザーテレサのように利他的な活動。平賀源内のように想天外な着想。どれも先天的で、終生失われることはありませんでした。

絵が上手。これも真価です。絵が上手な人へ向かって「上手ですね」と認めれば、よほどの天邪鬼でもない限り、悪い気はしませんよね?

理屈抜きで、映画を観るのが好き。数学が好き。歴史が好き。切手の蒐集が好き。クルマの運転が好き。人と話すのが好き。相談に応じるのが好き。食べるのが早い。足が速い。弁舌さわやか。演奏が上手。将棋や囲碁などのゲームに強い…

誰でも、無性に好きだったり、得意だったりするものが、一つくらい、ありますよね。こうした、終生失われることのない絶対本質が、人間の真の価値、つまり真価です。たとえば、作り話という空想が巧みなら、小説家になれる。

真価は、時に残酷な方向へ至ることもあります。暴君は暴力でのみ真価を発揮しますし、性犯罪者は犯罪によってのみ真価を発揮します。そうした致し方のない方向で花開く真価もありますが、これらは社会から悪として裁かれる類いにつき、ここでは除外します。